映画『屍者の帝国』について

原作を読んだ次の日に早速見に行った劇場版『屍者の帝国』。
夭折した作家伊藤計劃の作品をアニメ化するProject Itohの第1弾ですが、この作品はプロローグのみを伊藤計劃が書き遺し、彼の死後盟友円城塔が後を継いで完結させたものだ。

どういう作品かというと、死して魂を失った死体に、擬似霊素と呼ばれる人工の魂を書き込むことで、使役可能な屍者として蘇らせ、労働力として活用する19世紀末で、大英帝国の諜報員となった主人公のワトソンが、相棒のバーナビーと、全てを筆記、記録する屍者のフライデーとともにアフガニスタンに派遣され~あとは流れでというスチームパンクSFである。

さて、この劇場版を見ての感想は、一語で言うと「残念」である。
親友フライデーを死後に屍者化したワトソンは、物語を通して彼と彼との約束である魂の証明に偏執を続ける。
いや、フライデーとその”言葉”にというべきかもしれない。
原作ではまずフライデーが親友だという設定すらないが、アニメ版では、フライデーとワトソンが死後失われると言われる21グラムの魂の証明、更にその先、フライデーの復活を求める。
原作改変を問題にするつもりは全く無いが、死体や機械の魂について視点を変えたことと、その演出にはがっかりしてしまった。特に後者について。

アフガニスタン、日本、アメリカ、英国を巡る原作の流れを踏襲しつつ、原作とはテーマを変えているので、行動の必然性が感じられない場面があったり、何よりも、洗脳された仲間に呼びかけることで心に訴えかけて洗脳を解くような(実際にそういった描写がされているわけではありません。)演出がある事が問題だ。
こういう描写をされても単純にダサいとか、児童向けアニメなのだろうかといった気持ちしか抱けない。

前者についてだが、原作は「はじめに言葉ありき」と言える作品だった。お話を進めるギミックが言葉ならば、テーマも伏線も言葉であり、物語の背骨になるものと言える。そして何より、伊藤計劃の遺した言葉ありき、である。
劇場版ではその殆どを切り捨て、魂について、ワトソンとフライデー(そしてハダリー)にフォーカスした結果、シナリオ、演出が陳腐なものになってしまったし、そもそもこういったテーマというのは手垢に塗れたもので、旧世紀の遺物の感すら漂う。
このアニメを2015年に発表する意義があったのだろうかと考えさせられてしまい、残念である。

ただ、この作品にも擁護され、一発逆転のチャンスを与えられるべき点がある。
このテーマの転換が伊藤計劃と円城塔の関係性をフライデーとワトソンのそれに重ねあわせたメタフィクションを意図したものでもあろうということだ。
(円城塔もそのことを感じたのであろうコメントを残している。http://project-itoh.com/special/comment/enjo_comment.php)
深くは書かないが、こういった面から見ると愛おしく感じられる気もしないでもない。

また、円城版が言葉ありきの世界であったのに対して、このアニメでは「思考は言語に先行する」と伊藤計劃の『虐殺器官』に書かれた言葉を引用、実践(?)しているのを面白く感じたが、自分の中で消化しきれていないので勘弁していただきたい。

何はともあれ、この作品を観に行くならば、原作を読む前にしておくことをおすすめしたい。原作との違いに気を取られる2時間を過ごすのは勿体無い。純粋にスチームパンクエンターテインメントを楽しんでいただきたい。
自分は来月のProject Itoh第2段『ハーモニー』もネタにできるとホクホクしている所だ。『虐殺器官』は制作会社が倒産したのでちゃんと公開されるか不安だが。

屍者の帝国 河出文庫

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